法律演義

ロースクール修了後、企業法務の道へと進んだビジネスロイヤーによるブログ

行政裁量

行政裁量とは何か


 行政裁量とは、一般的に、立法者が法律の枠内で行政機関に認めた判断の余地のことを言う(宇賀『行政法概説Ⅰ』第3版・301頁)。行政処分の違法性を争って抗告訴訟や国家賠償請求訴訟を提起する場合、まず原告がクリアしなければならないのは、管轄や原告適格といった訴訟要件であるが、それをクリアしたとしても、次の実体審理において、①行政裁量の有無、②行政裁量の逸脱・濫用を論じていかなければならない(この点について異論もあると思うが、後述する)。

 行政裁量に関する古典的な議論は、まず行政処分を「覊束行為」と「裁量行為」とに分け、後者については更に、「羈束裁量」と「自由裁量」とに分けられるとしたうえで、自由裁量については司法判断は及ばないとするものであった。しかし、このようなカテゴリカルな行政裁量論が現代において通用しないものであることは、ご周知の通りである。そもそも、ある行政処分全体が、「羈束行為」か「裁量行為」かなどと、どちらかに割り切ることは限りなく不可能であるし、仮に「裁量行為」であったとして、その行為のうち、どこまでが司法判断の及ぶ「羈束裁量」で、どこからが司法判断の及ばない「自由裁量」かなどと、線引きをすることは、およそ現実的ではない(※)。

 そこで、現在は、判例も法律も、このような分類を放棄し、たとえ自由裁量行為であったとしても、裁量権の逸脱・濫用のある行為については司法審査の対象としている(行訴法30条)。むしろ、現在の行政裁量論は、行政処分のどの点に、どの範囲まで裁量が認められるかという広狭の議論へとシフトしており(質の問題ではない)、どのように裁量統制を及ぼすかという点に重きが置かれている。上で述べたような古典的な議論については、全て後述する判断過程の統制における考慮要素の一つに吸収されていると言えるので、敢えて独立に勉強する意味はないかと思う(現在の行政裁量論を理解する上で、知っておいて損はないかもしれない)。

(※)かつての古典的見解は、要件裁量(要件の認定)と効果裁量(行為の選択)だけを問題とし、要件裁量を否定するというものであった。しかし、現在の行政裁量論によれば、行政処分の判断過程は、①事実認定、②要件の認定(要件裁量)、③行為の選択(選択裁量・効果裁量)、④手続の選択、⑤時の選択というプロセスを経るとされており、要件裁量を肯定するだけでなく、手続裁量や時の裁量を認めるなどして、その範囲は拡大されている。


行政裁量の考え方


 試験問題で行政裁量が出題された場合、どのような思考プロセスを経るべきか。次はこの点について考えてみたい。

 まず、問題となっている行政処分を実体面の瑕疵と手続面の瑕疵とに分け、手続面の瑕疵が問題になっているものについては、殊更に行政裁量を持ち出す必要はない。例えば、行政手続法上の理由付記義務や審査基準設定・公表義務のように、法律の文言から一義的に結論が導かれるものについては、行政庁の裁量が登場する余地(判断の余地)は無いからである。後は、そのような手続的瑕疵が、行政処分全体を違法たらしめるものかどうかといった問題を論じていけば良いだろう。

 他方、実体面の瑕疵、例えば、許可基準に定められた要件を認定するに当たって、同じ条件下にあるAさんとBさんとで結論が変わっていたり、不利益処分を課すに当たって、客観的事実とはそぐわない重い処分が課せられているような場合には、行政裁量の問題である可能性が高い。行政裁量の有無は、法令の文言と処分の性質の両面から判断すべきとされており(『事例研究 行政法』第1版・66頁)、根拠法令の文言が多義的・抽象的概念を用いているか、問題とされている行政処分が侵害処分か受益処分か、行政機関の専門的・技術的判断を必要とするものか、といった点を検討することを要する。

 では、そのような基準を用いても行政裁量の有無が判断出来ない場合はどうすべきか。筆者としては、迷ったら行政裁量が存在することを前提に論じるべきだと思っているが、後述するように、行政裁量が無くても判断代置審査が可能なので、ひとまずうやむやにしておいて、場合分けで論じても良いかもしれない(あくまでもテクニカルな話であることにご留意頂きたい)。また、手続的瑕疵だけで違法性を論じることが可能であったとしても、実体法上の瑕疵は論じるべきだろう。手続的瑕疵の場合、仮にそれが理由で処分が取り消されたとしても、瑕疵を治癒した上で、同一処分を繰り返すことも可能なので、原告の権利救済の観点からは弱い(国家賠償請求訴訟であれば、話は別であるが)。


裁量統制の手法


 判例上、裁量統制の手法はいくつか存在する。

 まず、最も審査密度が濃いものとして、判断代置審査を挙げることが出来る。これは、裁判所が行政庁と同一の立場に立って、行政処分のプロセスを判断し、裁判所の判断と行政庁の判断が食い違う場合に、処分を違法とする手法である。仮に、法律の文言に多義的・抽象的概念が用いられていたとしても、その文言の意味を解釈するのは裁判所であるとの建前の下、行政庁の裁量を否定する点に特徴がある。ゆえに、厳密に言えば裁量統制の手法ではない。行政処分に一切の裁量が認められないという事例であれば、この判断代置審査が妥当するだろう(判断代置審査は、行政裁量が認められる場合には、一切用いることは出来ないのだろうか。この点については、後述する判断過程審査において、審理不尽にまで踏み込んで審査を行えば、十分判断代置審査に近い密度の審査を行うことが可能であり、敢えて判断代置審査にこだわる理由は無いかと思われる)。

 次に、行政裁量が存在することを前提に、その裁量権の逸脱・濫用を審査する手法を挙げることが出来る。一つは、最小限度の審査しかしない社会観念審査であり、もう一つは、行政庁の判断過程にまで踏み込んだ審査を行う判断過程審査である。

 社会観念審査は、行政庁の判断が全く事実の基礎を欠き、または社会観念上著しく妥当性を欠く場合に限って、処分を違法とするものである。その事情として、①重大な事実誤認、②法律の目的・動機違反、③信義則違反、④平等原則違反、⑤比例原則違反が挙げられている。他方、判断過程審査は、行政処分の判断過程に着目し、考慮すべきでない事項を考慮したか(他事考慮)、考慮すべき事項を考慮しなかったか(考慮遺脱)、あるいは重視すべき事項を重視せず・重視すべきでない事項を重視したか(考慮不尽)といった点をチェックし、行政庁の判断過程に不合理な点があれば処分を違法とする手法である。

 行政裁量が存在することを前提とする場合に、上記いずれかの手法を用いるべきか、悩む方もいるかと思う。近年の学説によれば、裁判所による審査方式は原則として判断過程審査によるべきであるとの見解も唱えられており(山本隆司・法学教室359号 113頁)、行政庁の裁量の質・幅に関わりなく、一律に判断過程審査を用いたとしても、必ずしも間違いではない(かなり広範な裁量権が認められている法務大臣の在留期間更新拒否処分についても、判断過程の統制が否定されるわけではないという指摘もある)。

 しかし、近年の判例にあっても、判断過程審査「だけ」に依拠して裁量統制を行っているわけではなく、その前提には社会観念審査の要素が含まれていると思われる判例が散見される(例えば、最判H18・2・7、最判H18・11・2など)。これらの判例は、裁量権の逸脱・濫用について、「全く事実の基礎を欠く場合」だけに限定せず、「重要な事実の基礎を欠く場合」にも逸脱・濫用に当たることを認めている。特に、最判H18・11・2は、「判断の過程において考慮すべき事情を考慮しないこと等によりその内容が社会通念に照らして著しく妥当性を欠くものと認められる場合」には、「裁量権の範囲を逸脱し又は濫用したもの」になると判示しており、社会観念審査と判断過程審査が融合したかのような審査手法を用いているのである。

 学説上も、考慮事項に着目した審査方式と比例原則や平等原則といった従来の具体的な裁量審査の基準は、相互に排他的関係にはないと考えられており(百選Ⅰ・77事件解説参照)、他方、判断過程審査において、考慮すべき事項を考慮しなかったとして違法取消しになったとしても、行政庁において、考慮しなかった事項を考慮し直し、再度同一処分を繰り返す可能性も否定出来ないので(百選Ⅰ・79事件解説参照)、紛争の一回的解決という側面からは、判断過程審査だけでは不十分と捉えられる余地があるかもしれない。そう考えると、判例の言うような社会観念審査の要素を取り入れた判断過程審査を用いることがベターのような気がしてならない。


※社会観念審査のうち、「全く事実の基礎を欠き」という文言を「重要な事実の基礎を欠き」という文言に置き換え、その判断要素の一つとして、判断過程の統制の趣旨(他事考慮・考慮遺脱・考慮不尽)を盛り込めば、社会観念審査の枠内で非常に密度の濃い審査が可能となる。

利益相反取引と競業取引

利益相反取引・競業取引について


 利益相反取引や競業取引は、「誰と誰との間の取引か」という形式面から出発し、「その取引によって会社との利害衝突が生じうるか」という実質面による審査を経て、最終的に、取締役会決議(取締役会を設置していない会社であれば株主総会決議)の要否、そのような決議を経ていない取引の有効性、取締役の責任といった点が確定される。

 これらの取引について、「直接取引」や「間接取引」、「名において」や「計算において」といったそれぞれの言葉の違いに混乱している方は、以下に述べるところを是非参考にして頂きたい。


直接取引


 利益相反取引においては、「会社」と「取締役」と「取締役以外の者」という3名の登場人物がいる。「会社」と「取締役」による取引が直接取引であり、「会社」と「取締役以外の者」による取引が間接取引に当たる。「取締役」と「取締役以外の者」による取引は、会社法上規制の対象にはなっていない(会社との利害衝突が想定出来ない)。

 ここでは、まず直接取引について考えてみよう。

 直接取引については、形式的に「会社」と「取締役」が取引をする場面であっても、実質的に会社との利害衝突が起こらないのであれば、わざわざそのような取引を規制する必要はない。そこで会社法は、取締役が「自己または第三者のために」会社と取引をする場合のみを規制の対象としており、「会社のために」なされる取引については規制の対象とはしていない(356条1項2号)。これは考えてみれば極々当たり前のことであり、例えば、取締役が会社に対して個人資産を贈与するという契約を結ぶ場合を考えてみれば分かりやすいだろう。

 問題となるのは、「自己または第三者のために」という文言の解釈である。この「ために」という文言については、「名において」という意味に解する名義説と、「計算において」という意味に解する計算説との対立があるのは皆さんもご存知の通りだが、この見解の違いがよく理解出来ないという方に一言申し上げておくと、基本書などでよく挙げられる事例にその混乱の原因があるかもしれないと筆者は考えている。

 すなわち、直接取引の代表例として、甲会社の取締役Aが、乙会社の取締役も兼ねているという場合に、取締役Aが、乙会社を代表して甲会社と取引をするような場面設定がよく使われている。この場面設定は間違いではないし、よく聞かれる直接取引の問題も、大抵は別会社の取締役を兼ねているというものである。しかし、直接取引の基本図式は、「会社」と「取締役」との取引である。甲会社の取締役Aが、乙会社の取締役を兼ねていようといまいと、甲会社と取締役Aが取引をすれば、それは直接取引ということになる。これが全ての基本に据えられるべきものであり、この基本図式に則って考える限り、次のことが言える。

 甲会社の取締役Aが、甲会社と取引をすれば、それは「自己の名において」なされたものであると同時に、「自己の計算において」なされたものであるから、名義説に立とうが計算説に立とうが、直接取引であることに変わりはない(但し、この場合でも、計算説に立った上で、自身が取締役を務める乙会社の利益を図る目的でなされたものであるならば、『第三者のために』なされたと言える。いずれにしても『自己または第三者のために』なされたものであることに変わりはない)。ゆえに、基本図式では「自己または第三者のために」という文言解釈が問題になるという場面はほぼ無いに等しい。他方、別会社の取締役も兼ねており、且つ会社と当該別会社が取引をしたという場合、必ずしも「自己または第三者の名において」取引がなされるとは限らない(取締役Aが、乙会社の実質的経営支配権を握っていながら、別の取締役Bが乙会社を代表したような場合)。そこで、このような場面に遭遇して初めて、名義説と計算説の違いを論じることに意味が生じるということになるだろう。

 では、本題へと戻る。結局のところ、名義説と計算説のどちらが妥当かという問題については、356条1項3号(間接取引)との関係で考えるのが最も素直ではなかろうか。かつては、間接取引のように、「会社」と「取締役以外の者」との間の取引を、利益相反取引とは観念していなかった(そのような規定がなかった)。ゆえに、「取締役以外の者」が取引の主体となった場合、名義説では、このような取引を規制することが出来なかったため、計算説が妥当だと解されていたのである。ただ、現在では間接取引も利益相反取引の一種として、規制の対象となったために、敢えて計算説を採る必要性はない。文言を素直に解釈すれば、「自己または第三者のために」とは、「自己または第三者が法的な意味において当該取引の当事者となること」、すなわち「自己または第三者の名において」という意味に解するのが妥当だろう。

 従って、甲会社の取締役Aが、乙会社の取締役として乙会社を代表し、甲会社と取引をした場合、名義説に立つ限り、「第三者の名において」取引がなされたということになるので、直接取引に当たることは疑いがない(計算説に立つ場合、取引主体となった者が、誰に経済的利益を帰属させようとしていたかによって結論が異なる)。他方、別の取締役Bが乙会社を代表して甲会社と取引をしたのであれば、「自己または第三者の名において」なされた取引とは言えないので、直接取引ではないということになる(取締役Aが乙会社を代表していない以上、『第三者の名において』とは言えない)。但し、その場合でも間接取引に該当する可能性はある。


間接取引


 間接取引とは、「会社」と「取締役以外の者」との間における取引で、「株式会社と当該取締役との利益が相反する取引」のことを指す。取締役の債務を保証するために、会社と金融機関が保証契約を締結するような場合が典型例である。あくまでも会社と取締役との利益が衝突する取引だけを対象としているので、会社の債務を取締役が保証するような場合は、間接取引ではない。

 保証契約は条文にも明記があるので、間接取引の代表例として分かりやすいが、それ以外の取引がどこまで間接取引に含まれるかという問題については非常に難しい。通説は、会社と第三者との間の取引であって、外形的・客観的に会社の犠牲で取締役に利益が生じる形の行為が規制の対象になるとしており(『リーガルクエスト会社法』2010年 204頁)、この規範に沿って考える限り、「会社」と「取締役以外の者」との取引のうち、「会社の損失」と「取締役の利得」との間に客観的関連性のあるものについては全て間接取引になるのではないかと推察する。上で挙げたように、甲会社の取締役Aが、乙会社の実質的支配経営権を握っており、別の取締役Bが乙会社を代表して、甲会社と取引した場合であっても、その実態が取締役Aの利益を図ることにあったとすれば、これは、会社と取締役との利益が衝突するものとして、間接取引だと言っても差し支えないだろう。

 なお、間接取引においては、直接取引のように、「自己または第三者のために」の文言解釈といった問題は存在しない。「取締役以外の者」が、自身のために取引をしようが、第三者のために取引をしようが自由であり、但し、会社と取締役との利益が衝突(相反)する場合に限って、この取引に規制を及ぼそうとするものに過ぎない。


利益相反取引のまとめ


 直接取引がなされたかのような場面について、名義説に立って検討した結果、間接取引に該当するという結論に至ったとする。この場合に、いずれにしても利益相反取引であることに変わりはないのだから、事案の解決上大して差はないだろうと考えるのは間違いである。

 直接取引にせよ間接取引にせよ、会社に損害が生じた場合、取締役は損害賠償責任を負うことになるが、①取引の主体となった取締役、②当該取引をすることを決定した取締役、③当該取引に関する取締役会の承認決議に賛成した取締役については、任務懈怠が推定される(423条3項各号)。つまり、任務を怠らなかったことを証明出来れば責任を免れるということになるのだが、④自己取引を行った取締役については無過失責任とされており(428条1項)、たとえ、任務を怠らなかったことを証明したとしても責任を免れることはない(責任の一部免除等も許されない)。

 この自己取引については、直接取引の場合しか観念出来ないので、間接取引の相手方となった取締役については、通常の任務懈怠の枠組みの中でその責任の有無を判断するしかない。このような違いがあることは重々頭の中に置いておくべきである。


競業取引


 356条1項1号にいう「株式会社の事業の部類に属する取引」とは、一般に、①会社の事業の目的たる取引より広く、それと同種類似の商品・役務を対象とする取引であって、②会社の行う事業と市場において競合し、会社と取締役との間に利益の衝突をきたす可能性のある取引のことを言う。会社と利益が衝突するという点では、利益相反取引と共通している。

 ここでも、直接取引と同様に、「自己または第三者のために」という文言解釈が問題となるが、基本的な考え方は直接取引と同じである。つまり、甲会社の取締役Aが、別会社の取締役を兼ねていようがいまいが(従前の会社の事業と同種類似の事業をやろうと言うのだから、既に別会社が存在し、その別会社の取締役を務めているケースがほとんどだが)、取締役Aが、甲会社の利益と衝突しうる競業取引をなす場合に、これを規制しようというのが基本図式であり、もし、取締役A自身が取引の主体であれば、名義説に立っても、計算説に立っても、競業取引に該当することに異論はないだろう。

 では、甲会社の取締役Aが、乙会社の取締役を兼ねており、別の取締役Bが乙会社を代表して甲会社と競業取引をしたという場合はどうか。ここで初めて「自己または第三者のために」という文言解釈の問題が生じるが、利益相反取引とは異なる視点が必要になる。つまり、利益相反取引においては、直接取引だけでなく、間接取引も併せて規制することによって、「誰の利益のためになされたか」という問題を補完しているが、競業取引においてはそのような規制がないために、同様の考え方を採ることが出来ない。ゆえに、競業取引においては、「誰の名義で取引が行われたか」という視点よりも、「誰の利益のために取引が行われたか」という実質的視点の方が適切であり、計算説が妥当だと言えよう(通説)。

 計算説に立って考えるのであれば、取引の名義人は誰であろうと関係がないので、たとえ乙会社を代表した者が取締役A自身ではなかったとしても、取締役Aの利益を図る目的でなされたものであれば、競業取引に当たるということになる。

 もっとも、競業取引において重要なのは名義説・計算説の争いではなく、競業取引を行った取締役の責任についてだろう。競業取引によって会社に損害を与えた取締役は、任務懈怠責任を負うことになるが、承認機関による承認決議を経ていたか否かで、損害額の推定の可否が異なっている(423条2項)。それは、利益相反取引の場合も同じだろうと思うかもしれないが、競業取引の場合、たとえ競業取引を行ったとしても、必ず会社の利益と衝突するとは限らず(上で述べた定義でも『衝突をきたす可能性』という表現になっていることに注意)、会社の利益が害されていないのに損害額を推定することに意味があるとは思えない。もっと言えば、競業取引においては、「取締役の得た利益の額」を「損害額」とイコールに解する論理必然性は存在しないと言える(このような損害額の推定規定が未だに残された背景には、旧商法下における介入権の存在が大きい)。

 だとすれば、競業取引が違法なものではなく、会社の利益を害するものでもないのに、取締役会決議を経ていないというだけで、損害額の推定を覆す主張立証責任を当該取締役に課すのは少し酷のような気もしないでもない。

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